最近、ベタ記事だけれど、電車のオーバーランの記事がやたらと配信されている。昔はこんなことで記事にはならなかった。きっかけはやはり、あの福知山線での脱線事故だろう。
思えば不思議な話で、あの事故の運転手は直前の駅でオーバーランを起こしていたけれど、オーバーランが直接事故につながったわけではない。にもかかわらず、あの事故以来、どの新聞もこっちでオーバーラン、あっちでオーバーラン、またもやオーバーランと、ちょっとのことでも騒ぐようになってしまった。
書いている記者が、起こったことの意味を分かっていて書いているのかどうか。
オイラは何度もオーバーランに遭遇したことがある。10両編成の電車が8両の停車位置で止まってしまったなんていう、足りないときもあった。新人さんの運転する電車に遭遇して、駅に止まるたびに位置を直していたこともあった。
オイラの安全意識が足りないのかもしれないが、停止したんなら良かったと思う。逆は困るけどね。それとブレーキが間に合わなくて行き過ぎたんなら、間に合わないのに急ブレーキをかけて車内の人たちがずっこけるよりはマシだと思う。何度も何度も繰り返し起きたら運転士の技術を疑ってしまうが、運転しているのは人間なのだからたまにはミスるさ。
JR西日本の事故の場合、運転士がオーバーランを起こしたことを必要以上に気にして、結果的に事故につながったという可能性が指摘されている。ならば、オーバーランごときで運転士を責め立てたらますますヤバいでしょ。
最近はずいぶん減ってしまった。それは新型の安全装置が普及してきたからだろう。東京の一部の地下鉄では、運転手の意志が介入する部分がだんだん減っている。走り出すと、止まるまでコンピューター任せという路線もあるらしい。
マスコミだけでなく社会もオーバーランに過敏になってしまった気がする。
確かに小さなトラブルは、大きなトラブルの予兆である場合がある。港区の区民向け住宅で起きたエレベーターの死亡事故も、事故の前からエレベーターの不具合が頻発していて、その情報を生かし切れないまま大事故が起きてしまった。鉄道会社としては、オーバーランのようなトラブルも、事故の予兆として把握する必要があるのかもしれない。
で、それは結果としてプレス発表されてしまう。
担当記者はプレス資料を受け取ると、それを小さなベタ記事にする。オーバーランではほとんど現地取材はないんじゃないだろうか。
意味あるんだろうか?
書いている本人は、何を意識して書いているのだろうか。
書くときにちゃんと脳を動かしているだろうか。
小さなトラブルを、大きなトラブルを未然に防ぐための予兆として認識することと、小さなトラブルを深く考えもせずにプレス資料を丸写しして垂れ流すことは、少しも重なる部分はないはずなのだ。
たまに「またオーバーラン」って「また」がついていたりして、何が「また」なんだよってツッコミを入れたくなることもある。
何か大切なことを見失っていないか・・・「オーバーラン」の記事を読むたび、そんなことを感じるのだ。
「事故の原因は、運転士にある」・・・そういうJR西日本の誘導キャンペーンにまんまとマスコミがのせられているように思えてくるのは考えすぎだろうか。
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