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2007年8月21日 (火)

【秋庭系東京地下物語'07《隠蔽》】(第7話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その2

Sn380052見づらい画像で申し訳ない。本当はスキャナなんて安いからすぐにでも買いたいが、引っ越し前なので大きな買い物は自粛している。以前あったスキャナはMacに対応しておらず、しかもWindowsXPでも未対応ということで、とっくの昔に捨てた。

この画像は、1925年1月8日に東京市が鉄道省に出願した高速鉄道建設計画である。抜粋は、『都営地下鉄建設史』からである。分かりづらいという方は、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫、P299)をご覧いただきたい。

宮城(皇居)をご覧いただくと、ど真ん中を太線が突っ切っている。これは、東京市の第5線のルートである。

つまり、このような図を見たとき、たいていのジャーナリストは、これが本物だという結論に到る。この図の申請に到る過程に焦点を絞り、この第五線から建設されたはずだと推測する。このルートがあったところがいま、どうなっているのかを調べ始める。

戦前、東京には銀座線しか地下鉄はなかったという。だが、この図を見たとき、私はそれは違うとほとんど確信していた。おそらくこの第五線が初めに建設され、ここから左右へと枝葉分かれする路線が次に敷かれたと考えられた。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P303)

今日は、「たいていのジャーナリスト」になったつもりで、この東京市の第五線に迫ってみたい。

この「宮城の下を通る第五線」が実際に描かれている資料は、『都営地下鉄建設史』(東京都交通局)である。該当箇所を抜き出してみたい。

 この路線網はペーターゼン方式を基本理念としている。その特長は、江東地区に3路線を計画していること、池袋のかわりに目白を選んだこと、在来の池袋・州崎線を新宿・州崎に変更し、その路線を皇居の下を通していることなどである。
 これは東京市による最初の本格的な地下鉄敷設申請であった。計画の大要は、復興計画道路との関連を重視し、市の中心部を貫通して郊外部に達する延長約82.2キロを毎年2.5キロないし8キロずつ建設し15年間に完成する予定で、建設費1億9981万円はすべて公債資金をもって充当し、その発行総額は2億2200万円であった。また軌間は4呎8吋半、複線電気鉄道である。

やはり「皇居の下を通している」と解説している。

しかし、本当なのか?もともとの申請では、どのルートがどこを通るという具体的な図はなかったはずだ。『都営地下鉄建設史』でも、6路線のルートは次のように書いているだけである。

(1)築地ー人形町ー浅草橋ー小村井   9.0キロ
(2)平塚ー五反田ー新橋ー上野ー北千住 18.7キロ
(3)恵比寿ー日比谷ー東京駅ー下板橋  18.2キロ
(4)渋谷ー赤坂見附ー日比谷ー月島   8.9キロ
(5)角筈ー東京駅ー州崎ー砂町     13.8キロ
(6)池袋ー大手町ー人形町ー大島町   13.6キロ

宮城の下を通るなんてことは、この申請からは分からない。

オリジナルの申請は、どのような内容だったのだろうか?

1934年出版の『東京地下鉄道史』(東京地下鉄道)にその内容を見つけた。この東京地下鉄道は、現在の東京メトロではなく、あの早川が起こした会社である。

一、第一號線自築地、至小岩延長(五哩五十鎖)通過町名、人形町、浅草橋、吾妻橋、浅草驛
一、第二號線自平塚、至千住(延長十一哩五十鎖)通過町名、戸越、五反田、伊皿子、三田、赤羽橋、新橋、尾張町、日本橋、和泉橋、上野、南千住
一、第三號線自惠比壽、至下板橋(延長十一哩廿鎖)通過町名、廣尾、六本木、虎の門、日比谷、東京驛、須田町、本郷三丁目、巣鴨、庚申塚
一、第四號線自澁谷、至月島(延長五哩卅八鎖)通過町名、青山一丁目赤坂見附、櫻田門、日比谷、築地
一、第五號線自角筈、至砂町(延長七哩四十六鎖)通過町名、永住町、市ヶ谷見付、五番町、東京驛、永代橋、洲崎
一、第六號線自池袋、大島町(延長八哩二十六鎖)通過町名、女子大學前、江戸川、飯田橋、九段坂下、大手町、日本橋、人形町、新大橋、菊川橋

やはり、宮城の下を通るという表現はどこにもない。それは秋庭先生も気づいていて、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)では、こう書いている。

このときの申請は住所を四か所あげているだけで、どの道路をとおるかというようなことは書かれていない。(P296)

つまり、「第五号線が皇居の下を通っている」という事実は、『都営地下鉄建設史』でしか確認できないのだ。

この6路線のオリジナルは、どこから来ているのだろうか?

帝都復興計画の策定の過程で、最初は2億円の地下鉄計画も含まれていたものの、最終的な復興計画では土地区画整理と道路の拡張に主眼がおかれたため、地下鉄建設計画は除外されている。それでも、地下鉄建設の必要性は誰もが認めており、東京市は復興事業の一環として市営地下鉄建設を決める。

震災7ヶ月後の1924年(大正12年)4月19日に東京市営地下鉄計画を立案し、市参事会にも提案したが、その後、市営バスの欠損問題、電車買入問題などにより、当時の市長と電気局長が辞任している。

七月十五日、東京市は六路線の地下鉄を申請している。これが勝負の結果ではなかったのかと私は思う。営団地下鉄、都営地下鉄などの書籍では、この申請を翌年の一月としているものもあるが、私は公文書の日付どおりだと考える。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P295)

秋庭先生はこう書いているが、オイラはそれはないと思う。秋庭先生が何の資料を根拠としているのか分からないが、7月15日の段階は、電気局長が辞任して空席の状態である。もちろん市長はこの段階で辞任していないが、そんな状況で市会が申請を認めるとは考えにくいし、実際市会がそれを議決したという記録は存在しない。公式の記録でも、市会の議決は12月、免許申請が翌年1月なら、そのほうが矛盾がない。

帝都復興計画が縮小に縮小を重ねていた頃、東京市はそれを黙って見ていたわけではない。

1923年(大正12年)12月3日、東京市会は「帝都復興に関する意見書」を起案し、これに帝都復興計画要旨と帝都復興計画東京市案一般図を添付して、内閣総理大臣、内務大臣、大蔵大臣、帝都復興院総裁などに提出した。

このときの「帝都復興計画要旨」にこんな記述があった。

一、本案は街路網の骨格に於て理想的高速鐵道網の敷設に便利なる様考慮したり高速度鐵道の系統凡そ左の如し。

1、芝浦埋立地より銀座東仲通、浅草橋を経て鐘ヶ淵に至る。
2、五反田より東京驛東口附近を経て千住大橋に至る。
3、惠比須より日比谷小川町を経て巣鴨に至る。
4、澁谷より馬場先を経て月島に至る。
5、新宿より半蔵門を経て砂町に至る。
6、池袋より大手町坂本町を経て亀戸に至る。

東京市が1925年1月8日に鉄道省に申請した6路線と極めて似ていると思う。

このときの新宿から半蔵門を経て砂町に至る5番目の路線は、この記述を見る限りにおいて、宮城を縦断しているのか否かは分からない。「半蔵門」とあるので宮城の西側を迂回することも考えられるが、第四線が渋谷から宮城の西側を通って月島に向かっているから、重なることは考えられない。では、第五線は、やはり宮城の下を貫いているのか。

江戸東京博物館の「後藤新平展」を歩いてみると、ある1枚の都市計画図に出会った。

「帝都復興計画東京市案一般図」である。

つまり東京市会が議決した「帝都復興に関する意見書」に添付されている都市計画図である。

いわゆる「高速地下鉄道」の路線が赤線で引っ張ってある。これは、「帝都復興計画要旨」にある上記の6つの地下鉄ルートを赤線で表現している。

「第五線」のルートを確認する。

スタート地点は確かに新宿。そこから四谷付近を通り、五番町を通過し・・・ここからが問題であるが、半蔵門よりも少し北側を通って、現在の皇居北側にある代官町通を東西に横切り、竹橋付近へと出ると、今度は内堀通を通り、大手町付近へとつながり、東京駅の脇を通って、江東地区へと伸びている。

Sn380054 これが代官町通。画像の左が皇居、右が北の丸公園である。この撮影地点を振り返ると、あのパレスサイドビルがある。

五番町から宮城を縦断して行幸通を通り東京駅には通じていなかった。

五番町から先は、現在の皇居の敷地と武道館がある北の丸公園の間に走る代官町通や首都高都心環状線を通り、皇居の東側に回り込んで東京駅の東側を通過している。

ここに掲載されている6路線は、ルートをほとんど踏襲した形で、1925年に申請した地下鉄ルートへと反映されている。

では、1925年に申請した第五線のルートである。

新宿から東京駅を経て、砂町に至るルートは、本当に宮城(皇居)の中央を直線で通り抜けるものだったのだろうか?

ここからは、オイラの妄想である。

東京市が1925年1月に申請した地下鉄ルートの第5号線は、宮城(皇居)の中央を直線で通り抜けていなくて、現在の都心環状線のルートを経て、竹橋から宮城の東側を迂回して大手町付近を砂町に向けて通り抜ける、というのが、本来の想定ではないだろうか。

ということは、つまり、『都営地下鉄建設史』の図は、間違っている可能性が強い。

そもそも東京市の「第五線」が宮城(皇居)の中央を通っているという資料は、存在しないのだ。『都営地下鉄建設史』は、確かにそう解説しているが、それに至った根拠を明示していない。

代官町通は、帝都復興計画の甲案では計画道路に含まれているが、乙案では存在しない。最終的な実施案でも削除されていた。東京市の申請路線は、帝都復興計画で敷かれた道路の下を通るよう構想していて、おそらく代官町通を通って皇居を東側に回り込んで東京駅東側を通るルートだったのではないか。

 

さらに1つ指摘しておく。

東京市がこれだけの地下鉄の免許を取得したのは、後藤新平の手腕によるものだった。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P305)

秋庭先生が「東京市が極秘に建設した」と妄想している、1925年1月に東京市が申請した6路線については、免許が下りていない。

東京市の出願計画は、復興院、内務省、鉄道省、東京府・市で構成する「高速鉄道に関する協議会」で審議される。その結果、5路線82.4キロの路線網を決定。これを特別都市計画委員会に諮り、1925年3月30日に内務省から告示された。この5路線のうち1路線をのぞき、東京市に免許を与えている。

後藤の手腕も何も、1925年の段階では後藤は内務大臣ではなく、社団法人東京放送局総裁である。帝都復興からも鉄道からも身を引き、政治の倫理化を求めて全国を遊説している。すでに帝都東京の未来は後藤の手を離れていたのだ。

秋庭先生は、「鉄道の免許に地上・地下の区別はない。線路は何本でも敷ける」と主張していた。でも、そもそも免許が下りていないのだから、線路は敷けない。

仮に免許が下りていたとしても、秋庭先生は地下鉄ルートの根拠を『都営地下鉄建設史』に掲載された図だけを根拠にしており、『建設史』の図にあるルートは非常に曖昧な線の敷き方をしていて、そのまま鵜呑みにはできない。

この第三線は六本木からまっすぐに進んで日比谷公園をななめに横切っている。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P298)

第四線の高樹町ー桜田門、桜田門ー築地は、いずれもほとんど直線になっている。(『同』P302)

第五線の「五番町ー東京駅前」という区間は直線で結ばれ、宮城のほぼ中央をななめに横切っている。(『同』P302)

これらの表現そのものが根拠のないものなのだ。

つまり、このような秋庭本を見たとき、たいていのジャーナリストは、これが偽物だという結論に至る。この書物を書くに至る過程に焦点を絞り、この第五線は建設されなかったはずだと推測する。このルートがあったところがいま、どうなっているのか調べ始めると、秋庭先生の妄想ぶりが明確になる。

 

次回はいよいよ最終回。後藤新平の人物像に迫る。

(つづく)

【秋庭系東京地下物語'07《隠蔽》】

(第1話)隠されたル・コルビュジエ「輝く都市」の秘密・前編

(第2話)隠されたル・コルビュジエ「輝く都市」の秘密・後編

(第3話)隠された中村順平「東京近郊」の秘密・前編

(第4話)隠された中村順平「東京近郊」の秘密・後編

(第5話)隠された内田祥三「大同の都市計画」の秘密

(第6話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その1

(第7話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その2

                   ・・・(補足

(最終話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その3

(関連サイト)

江戸東京博物館

(関連書籍)

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[東京市営高速鉄道]

の昭和6年当時の計画はここ

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/07-04/07-04-1407.pdf

で、どうぞ。

投稿: 胆高 | 2009年8月29日 (土) 19時09分

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