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2007年3月20日 (火)

【秋庭系東京地下物語2007】(最終話)地下鉄サリン事件・霞ヶ関駅の真実

Kokkai1 リニューアルされた丸ノ内線・国会議事堂前駅である。ほんの少し前までは、ずいぶん古ぼけた駅で、地下の都市伝説の権威・秋庭俊先生の言い方を真似れば、「戦前にあったとしか思えない」とでも言うのだろうか。やはり、東京の地下鉄を語る上で、この駅の存在は欠かせないような気もする。

最終話は、この駅から始まる。「幻の地下護送ルート」が紹介された朝日新聞社の『地下鉄物語』では、丸ノ内線・国会議事堂前駅で、電車が通過になった日のことが綴られている。

それは、2度あったという。1回目は、1959(昭和34)年12月10日。2回目は、1960(昭和35)年4月23日。丸ノ内線の建設当時、衆議院が駅出入り口用に敷地を貸与する際、営団と交わした契約項目の中に、「本院の警備上必要ある時は一時閉鎖を指示できる」と書かれていた。前記の2回、衆議院は、「全学連学生の行動に鑑み」、議事堂口と総理府口の閉鎖を営団に指示した。

日本の敗戦直後、焼け野原で乗客がほとんどいなくなった末広町、稲荷町駅でも、電車はノンストップとなった。でも、警備当局の要請で電車の駅通過を余儀なくされたのは、この例が初めてだったのではないか。

そして、戦後、電車を停めたくても停められない事件が、東京のど真ん中で起きた。あれから、12年、事件がオイラたちに教えてくれたことは、何か? 秋庭先生では教えてくれなかった「真実」がそこにあった。

1回目の閉鎖では、全学連の国会デモが中止になった。2回目は、学生800人が国会正門前に座り込み、騒然となった。地下では、133本の電車が通過する以外には、何もない密室が4時間も続いた。

『地下鉄物語』の連載によると、六〇年安保が激しくなると、地下も日増しに緊迫した。大規模なデモがあると、ホームに本やカバンなどの遺失物が増えた。地上で警官隊との衝突が予想されるため、あとで取りにくるためわざと置いていったという。それでも、営団の職員は、警備当局に、地下鉄マンの立場として、地下構内では規制をしないよう申し入れたそうだ。その結果、構内に座り込んだデモ隊を、自力で排除することになった。

1960年6月15日、全学連が国会に突入し、警官隊と激しい乱闘になった。東大生・樺美智子さんが死亡。負傷者は555人に達した。駅は終日混雑し、血まみれや、放水で全身ずぶぬれになった学生たちが逃げ込んだ。でも、そのとき、駅は封鎖されず、電車は平常通り、停まった。

地下鉄マンとして、電車を通過させることは、断腸の思いだったに違いない。まして、万が一、駅構内を警官が規制することになれば、プライドを踏みにじられる思いだっただろう。連載を読みながら、当時の営団職員の地下鉄マンとしてのプライド…そんなことを感じたが、いかがだろうか。

 

時代は、1990年代。安保闘争のような騒然とした時代は終わりを告げ、地下鉄もほとんどの路線は完成し、いつしか人々は、電車は安全な乗物という安心感を持っていた。

しかし。

1995年3月20日午前8時頃、オウム真理教の信者によって、営団地下鉄の丸ノ内線・日比谷線の各2編成、千代田線の1編成の車内で、化学兵器として使用される毒ガス・サリンが散布され、乗客・駅員12人が死亡し、5510人が重軽傷を負った。

秋庭俊先生は、『帝都東京・隠された地下網の秘密』の中で、このときのことを書いている。地下鉄サリン事件当日、千代田線の車両が霞ヶ関駅に停まり、3分以上も経った後、「地上に避難してください」と緊急放送が流れたというのだ。

これは、事実なのか。

事件が事件だけに、妄想が許される範疇ではないと思う。

当時の新聞各紙の縮刷版をめくってみた。

千代田線霞ヶ関駅では、2人の駅員が亡くなっている。

オウム真理教・林郁夫によって新聞紙に包まれたサリン入りナイロン袋が置かれた代々木上原行きの電車は、午前8時12分ころ、霞ケ関駅に到着した。霞ケ関駅では、異物があるという乗客の通報により、同駅の高橋一正助役が、先頭車両の車内から、サリン入りナイロン袋が入った新聞紙の包みを白手袋着用の両手で持って、ホーム上に運び出して置き、さらに、不要の新聞紙を使って、サリンが流れて付着している同車両の床を拭いた。その後、高橋助役と、代々木電車区から応援に来ていた菱沼恒夫助役など計3人の駅員が、それらをビニール袋に入れ、同駅事務室に運んだ。

その後、同列車は、約2分遅れて、霞ケ関駅を発車し、国会議事堂前駅に到着したが、同駅では乗客全員を降車させて運転を中止した。

高橋助役と菱沼助役は、駅事務室までたどり着いた後、病院に運ばれ、間もなく息を引き取った。菱沼さんは、代々木上原駅に、「気分が悪くなったので病院に行く」と電話連絡したのが、最後の言葉だったという。

当時の朝日新聞3月22日付朝刊は、菱沼さんが自宅に無言の帰宅をしたという記事を掲載している。娘さんが、もしも父がサリンを車内から運び出さなければ、もっと被害者が増えていたかもしれないと語っている。その通りだと思う。当時、液体の中身がサリンと分かっていなかったとはいえ、彼らの捨て身の努力がなければ、さらに犠牲者は増えただろう。

3月20日午前、有毒ガスの原因はサリンと分かっていなかったが、駅員に死者が出た霞ヶ関駅では、サリンの異臭が漂う中を、駅員が必死の形相で乗客に避難を呼びかけていた。

「ここにいると命の補償ができません!すぐに避難してください!」

命の補償が出来ない場所で、駅員は最後まで残り、乗客たちを誘導した。同僚に死者まで出したのだ。駅の構造が複雑なら、なおさら声を枯らして、乗客に呼びかけたことだろう。捨て身の戦いをしたのは、死んだ人だけではなかったのだ。

秋庭先生は、自著の中で、おそらく、霞ヶ関駅の改札口がホームの下にあり、それが不便だ、おかしいと言いたかったのだろう。でも、妄想していいことと悪いことがある。

先ず第一に、千代田線の車両は、3分も停まらず、2分遅れで国会議事堂前に向けて発車した。第二に、車両が停車中には、上記のようにサリンの液体を取り除く作業を行っており、緊急放送は流れていない。第三に、その車両の乗客に避難を指示したのは、霞ヶ関駅ではなく、運転を打ち切った国会議事堂前駅である。

一部ネットでは、このとき千代田線が霞ヶ関駅で運転を取りやめたという情報が書かれているが、調べてみたところ、サリンが散布された電車は、高橋助役らが車内を拭き取ったあと、国会議事堂前駅に向けて発車している。

当時、事件後、霞ヶ関駅は数日間、通過駅となった。自らの失態ではないとは言え、停めるべき駅を通過させなければならなかったのは、営団の職員たちは、おそらく鉄道マンとして断腸の思いだったに違いない。秋庭先生の書き方では、まるで事故が起きたのに乗客は放置されていたように読めるが、命がけで事件と闘った地下鉄マンがいたということを、覚えておいてもらいたい。

 

Kasumi1_1 右の画像は、現在の千代田線霞ヶ関駅である。当時、サリンが散布された先頭車両は、今は、ラッシュ時には「女性専用車両」となっている。時代がもう少し近ければ、事故の首謀者が男なのだから、サリンを置く場所も変わったのかもしれない。

あれから12年。

営団は、東京メトロとなり、民営化の道を歩み出した。3月20日が来るたび、2人の駅員がここで亡くなった事実、サリン事件で12人の尊い命を失い、まだ後遺症に苦しむ被害者たちがたくさんいるということを忘れてはならないだろう。東京の地下に、隠された地下鉄があると書こうが、政府専用地下鉄があると書こうが、営団は何も語ってくれないと愚痴ろうが、それはその人の勝手である。でも、命をかけた人たちの心を踏みにじるような妄想を書き連ねることは、ジャーナリスト以前に、人間失格である。

つまらないことかもしれないが、電車の定時運行は、平和の証拠だと思う。停まるべき駅に停まり、いつでも誰でも、安全に安心して乗り降りすることができる。それを支えているのは、そこに働く鉄道マンたちの誇りとプライドではないだろうか。社会が平和な時代には、鉄道は、何事もない平和な毎日をおくる。国会議事堂前駅で警備当局を構内に入れずに頑張った駅員、霞ヶ関駅で命がけで乗客を守った駅員、時代はずいぶん離れているけれど、そこにある「真実」は、同じなのだと思うが、皆さんは、どう感じられただろうか。

最後に。

地下鉄サリン事件で亡くなった12人の犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、犠牲者の遺族、今も後遺症に苦しむ被害者、その家族の皆さんに心からお見舞い申し上げます。

(ブログで紹介した書籍)

【秋庭系東京地下物語2007】

第1話 サンシャイン・シティの妄想

第2話 「極秘」護送地下鉄の妄想

第3話 水没した赤坂見附駅の妄想

第4話 区界の地下に流れる「川」の妄想

第5話 東京メトロ有楽町線の妄想

第6話 築地の運河跡にある「政府専用地下駐車場」の妄想

最終話 地下鉄サリン事件・霞ヶ関駅の真実

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コメント

その朝は、普段静かなフジテレビ通り商店街の外れまで、空気が騒がしかった。
前日より会議のために上京し、ツレの仕事場に潜り込んで惰眠を貪っていた私は鳴り止まぬサイレンに、消防波にスキャンを掛けて、大規模災害時の秘話解除された通信で変事を知った。
当初は、内容も地下鉄で大きな事故が起こっていると言うような、救急と救助に関するものだった。荻窪、霞ヶ関、茅場町、築地もそうだったかな?負傷者情報や出場指令が間断無く飛び交い。
会社の東京店のある日本橋に向かうべく身繕いした9時頃には「液体はサリン」と断定する通信があった。
そう、「○○と思われる」などと言ういつもの慎重な情報伝達でなく、スッキリサッパリ「液体はサリン」と特定されていたのを記憶している。
不思議なのは曙橋から乗った都営新宿線、九段下からの東西線が普段となんら変わる様子がなかったことだった。
午後2時からの有楽町での会議も普段と変わるところ無くおこなわれたが、都心は終日、緊急自動車のサイレンが途切れることはなかった。
あの日、東京は日常と非日常が隣り合って存在し、私はたまたまに日常の側に居たということなのだと。今にして思えばそういうことなのだろう。

投稿: 陸壱玖 | 2007年3月20日 (火) 23時20分

オイラは、今の会社に入社した年で、試用期間が過ぎたばかりでした。そんな新人が、何故かこの日はたまたま仕事がなくて、有給休暇をとっていたのです。

事件が起きた車両は、オイラがいつも外回りに使う電車ばかりでした。数日後、友達の結婚式の打ち合わせがあって、そのとき、あの教祖のテーマソングがどういうわけか口ずさめることに、友達どうしでショックを受けていた覚えがあります。

仕事柄、その年は幾度も、あの宗教団体の施設周辺に足を運びました。浮世離れした信者たちに驚き、恐れ、虚しさと、いろいろな感情がわき上がりました。

おそらく、オイラも、たまたま、あの日、休暇をとっていて、たまたま、電車には居合わせなかっただけのことでしょう。もしかすると、オイラも犠牲者だったのかもしれません。

今でも、あの日の記憶が、今ひとつリアリティを感じない。ただ、確かに日本は、あの日を境に、違う進路を歩んでいる、そのことだけは、確信できるのです。

投稿: mori-chi | 2007年3月20日 (火) 23時30分

丸ノ内線の換気口発見おめでとうございます。土被り2~6メートルですから、換気口あっても不思議は無いですね。
ただ、あそこの文章は可笑しいですよ。
「閉園の時刻には『衆議院』のマイクロバスが現れ、スーツ姿の男たちが門を閉めにくる。時折、地下鉄の換気口を二人で重そうに運んでいる。」(帝都東京・隠された地下網の秘密 洋泉社2002年刊)
「閉園の時刻には『衆議院』のマイクロバスが現れ、スーツ姿の男たちが門を閉めにくる。時折、地下鉄の換気口の鉄蓋を二人で重そうに運んでいる。」(帝都東京・隠された地下網の秘密 新潮社2006年刊)
スーツ姿の男たちが言った、「換気口は運べません」と。
(井上マー風)
完璧な誤認だと思われるのは、
「だが、この庭園にはひっきりなしに地下鉄のブレーキ音が響いている。レールが悲鳴を上げているようにさえ思える。ここは丸ノ内線にとっては急坂のうえに急カーブが続き、路線最大の難所となっているようだ。」
電制でしょうから、車輪とシュー摺動音じゃなくて線路とタイヤかフランジの摺動音でしょうね。
少なくとも私何ぞは、よう区別ができませんが。

投稿: 陸壱玖 | 2007年3月27日 (火) 00時40分

いやはや、めんぼくない。入社当時、先輩から「現場百遍」と教えられましたが、今になって思い返します。

確かに庭園には、ぎぎーって音が響いているんですが、ありゃ、ブレーキ音ではないですよね。難所っていいますが、今の丸ノ内線ってほとんど自動運転になってません?どうして、あんな庭園の真ん中に通風孔があるのか、しかも中途半端な方向を向いているのか等々、国会議事堂周辺のいろんな地下の謎も勉強させていただきました。お詫びにまとめて解明しちゃおうかと企てています。

投稿: mori-chi | 2007年3月28日 (水) 01時17分

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