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2006年10月13日 (金)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?29

さて、そろそろ、東京の地下の話も佳境に入ってきた。

『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)から。

後藤新平は十二路線の地下鉄を計画し、東京市と早川がほぼ全線を完成している。六路線を政府におさめ、東京市が五路線、早川が一路線を開業できるかと思われたものの、わずか一路線の半分という結果になった。おそらく五島慶太は、新宿線、渋谷線、連絡線、渋谷から二子玉川まで半蔵門線を完成し、一路線の半分を手にしていた。(P335)

さてさて、どうしたものか。あまりにも突然、東京市の6路線が整備されたことになっていて、さらに、それぞれ直線街路まで整備されちゃっている。その1つ1つに反論を試みることもできるかもしれないが、今ひとつ虚しさも感じるし、その一部分は今までも書いてきた通りである。ここでは、細かい部分は省き、大枠の話をしたいと思う。

まずは、直線街路のこと。何故、隠された地下鉄が、実際の申請ルート以外にも直線の街路があったのか、その根拠はほとんど書かれていない。あえて言えば、

「帝都復興」は下水改良という名の地下鉄、地下道をズタズタにする。それが反発の理由であったとすれば、新たにそれを建設すれば問題は解決する。おそらくこのとき後藤新平は下水改良の地下鉄を建設すると政府に確約している。(P323)

ここまでオイラのブログを追いかけてきてくれた人なら、この話の前提となっている下水改良地下鉄が存在しないのは、ご承知のことと思う。

「下水改良」地下鉄なるものはないって記事はここ。

そもそも「市区改正」は、地上の計画だったって記事はここ。

「市区改正」は、湯水のように金を使った事実はないって記事はここ。

関東大震災以前に、明治から大正にかけた「市区改正」で地下道か地下鉄が敷かれたという証拠は、ついに見つからなかったし、秋庭さんが挙げた証拠はすべて勘違いだったことが分かった。従って、帝都復興によりズタズタになる地下鉄など存在しない。

もう1つの直線街路の根拠は、これだろう。

品川と千住大橋を直線で結ぶ道路もない。(P319)

これも秋庭さんの早とちりであることは、以下の記事で述べた通り。

帝都復興の設計士が地下道の秘密を暴いているわけじゃないって記事

後藤新平が、帝都復興で反発を浴びていた理由は、他にある。

単純に、政敵が多すぎたからである。

直線街路がないことが分かったところで、残りの、申請にあった6路線が、実は国民に極秘につくられたのではないかという仮説である。

帝都復興計画における高速鉄道(地下鉄)ルートは、1915年3月、特別都市計画委員会で可決された路線網である。近郊の私鉄電車が乗り入れ、新興の交通ターミナルとなりつつあった池袋、新宿、渋谷、目黒と都心部を連絡する幹線道路を建設し、その下に地下鉄を通すというものだった。これは、東京の副都心形成と交通計画の原型となったものの、復興計画の縮小のため、事業の対象から除外された。

帝都復興計画は、帝都復興院での最初の予算の概算は、12億9500万円だった。国会に提出されたときには、5億7500万円となり、さらに国会で4億6800万円まで削減されてしまった。

最も大きな反発を受けたのは、区画整理事業である。今でさえ、区画整理は、都市整備の一般的な手法として定着しているが、当時の東京では、大々的な区画整理を行った経験はなかったため、人々の間では、“区画整理は地主の土地のタダ取り”という誤解があった。前の記事を読んでいただくと分かるが、市区改正では、すべての公共事業の用地は、買い取り方式だった。これだと、金がかかるだけでなく、立ち退きを受ける人と事業によって恩恵を受ける人との格差があり、将来に遺恨を残す。帝都復興では、このような教訓から、土地区画整理方式がとられた。

この土地区画整理に、もともと政敵の多かった後藤新平は、ここぞとばかりに攻撃を受けて、帝都復興の予算はどんどん削減された。後藤新平は、土地区画整理の事業主体を東京市に変更し、東京市の財政負担を増やすことで、区画整理を実施した。

東京市がそんな無理を引き受けるかというと、当時の東京市長は、後藤の腹心であり、後藤が市長時代の第一助役、永田秀次郎だったため、これを快く引き受けた。

こうして、帝都復興では、世界でまだ実例をみない既成市街地の1100万坪にも及ぶ広大な区域の土地区画整理を成功させた。街路計画も、河川・運河計画も、公園計画も、そもそも土地区画整理によって用地を生み出さなければ、そもそも実現することができない。このあと、昭和通り、大正通りという東西南北の二大幹線道路の他、蔵前橋通り、清澄通り、浅草通り、三ツ目通り、永代通りなど、多数の幹線道路が新設された。墨田、錦糸、浜町の三大公園と52の復興公園も新設された。

後藤新平の成果は、昭和通りだけというのは、大きな誤解である。彼は、確かに公職にあるうちに出した成果は多くはなかったが、彼が敷いた計画や方針は、彼の意志を受け継いだ多くの政治家や行政マンが、実現に導いた。

ところで、帝都復興計画では、地下鉄建設の予算が削られてしまったので、復興計画の予算4億6800万円の中には入っていない。では、東京市の予算だったかというと、上の事情を見ると、そんな財政的な余裕はなかったことが想像できる。むしろ、当時の東京市は、区画整理を行うので必死だった。ただ、当時の街路計画の一部が、その地下に地下鉄を通すことを想定していたことは、事実である。

が、いったい誰がつくったのか、誰の金を使ったのか、そういう基本的なことが分からない。

銀座線をつくった早川徳次には、そんな余裕がない。早川は、東京地下鉄道の会社設立直前に、4000万円の資本金すら集められず、やむなく資本金を1000万円にしている。このため、当初東京地下鉄道が着工する予定だった新橋・上野間の建設費が調達できず、後藤新平東京市長に株式の引き受けを要請したが、財政上の余裕がないと言われて断られ、次に考えた外資導入も関東大震災によって成立しなかった。結局、先に上野・浅草間の建設を決めた。

第一次世界大戦、関東大震災、世界恐慌…そんな世界も日本もひっくり返っているとき、果たして、国民に隠されて地下鉄網を敷くことができる機関・人物・媒体が、どこにあったというのだろうか。

秋庭俊さんは、明治以来、東京に、国民に隠された地下網が形成される根拠を、一貫して、普通に公開されている地図や計画図へと求める。そこに、設計士や政治家たちの発言を絡めて、地下網の仮説を立てる。が、その筋書きが、あまりにも無理がありすぎて、歴史を知らない人ならコロッと引っかかるかもしれないが、突き詰めれば突き詰めるほど、秋庭さんの仮説は、多くの反証にぶち当たることになる。秋庭さんの本は、いったい、どこが正しいのだろうか。それは、皆さんでもう一度、このブログを読み返して考えてみてほしい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。

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『新説東京地下要塞-隠された巨大地下ネットワークの真実-』を読む

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『写真と地図で読む!帝都東京・地下の秘密』(洋泉社MOOK)を読んでみた。

『大東京の地下99の謎』(秋庭俊著、二見文庫)を読む

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