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2006年9月18日 (月)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?24

明治21年8月、東京市区改正条例が発布された。これにより、都市計画の全権を内務大臣に集中。外務省との争いを経て、内務省が都市計画を担うという体制が確立された。これを受けて設置された市区改正委員会は、明治21年10月5日から22年3月5日まで、28回の討議を行い、いわゆる委員会案をまとめる。

委員会案は、法令により実行を保証されている最初の市区改正計画である。

委員会案は、審査会案の核であった築港を捨て、商業都市化をやめ、交通計画中心に後退した。市場は残ったものの、商法会議所や共同取引所、劇場は削除された。いわゆる「旧設計」と呼ばれるものである。

市区改正事業の財源は、地租、営業税及び雑税、家屋税、清酒税の特別徴収と、官有河岸地の賃貸と払い下げにより、年額30万円から50万円に限られていた。

市街鉄道については、明治21年11月2日、田中卯吉委員の発議により、「外郭即ち牛込市ヶ谷四谷赤坂虎の門等を一周せしめ万世橋より新橋に至る」環状の市街鉄道の立案を決め、鉄道技師松本荘一郎に託して成案を得るが、時期尚早として案だけにとどめている。

水道計画については、芳川案では外されていたが、明治21年10月15日、市区改正委員会で盛り込むことが決まった。ただ、上水の完成まで下水は延期することとし、これが、この後の歴史で東京の下水道整備が遅れる原因となっている。

明治22年5月、委員会案が公示。市区改正の事業がスタートする。

が、委員会の大勢は、一部を除き慎重派で占められており、既存の施設を修繕する程度が実行に移されるにとどまった。当時、コレラが大流行していたことから、明治23年4月、上水計画が委員会案に追加。道路計画にまったく手をつけないまま、10年の歳月が過ぎた。上水道は、明治32年12月10日に全市への給水を開始。新参の水道が古株の道路を抜いて着手されるという運命をたどった。

明治33年5月7日、内務省は、主要路線29本をより抜き、5ヵ年1500万円を集中投下する速成事業を決め、上限50万円枠の撤廃を帝国議会に諮るが、議会はこれを否決した。

明治35年2月、計画の削減を決定。36年3月31日、縮小案を公示した。いわゆる「新設計」である。

ところが、明治37年、日露戦争が勃発。2年間、日本の政治は戦争一色に染まり、市区改正は沈黙した。終戦後、東京の一極集中がさらに強まり、市区改正の必要性に迫られた。内務省は、外債発行と東京市臨時市区改正局設置による新設計速成を決め、即実行された。

新設計が完成したのは、大正3年のことである。

市区改正は、旧設計時代も含めると、2812万円を道路に注ぎ、38万1445坪を買い上げ、延長9万6575間の道を改修した。

道路事業で最も大きな成果は、日本橋大通りの改良である。万世橋・京橋間2650メートルの街並みの西側に連なる200坪を越える商家を軒並み削り取り、道路を5間広げて15間とし、左右各反間を割いて、並木道にあてた。

鉄道は、上野・新橋間の縦貫鉄道が完成し、現在の東京駅となる中央ステーションが完成している。山手線や中央線、近郊私鉄線も、市区改正の成果である。

火葬場、墓地は予定通り完成。公園は、旧寺社地転用を除くと、新規開設はお茶の水公園ただ1つだったという。

市場は、手つかずに終わった。

さて、今夜は、『帝都東京・隠された地下網の秘密2』(新潮文庫)からである。

首都建設という大命題「市区改正」は、まさに湯水のように金を使い、五年が過ぎ、六年が過ぎ、七年が過ぎたが、だが、東京は何一つとして変わらなかった。どこにどんな道路を敷くという計画図は発表されていたが、そんな道路はどこにもできなかった。(P126)

確かに市区改正は、「10年経っても、1本の道路も敷かなかった」という期間が存在する。が、その期間、何もしていなかったかと言えば、既存施設の改良や上水道の整備を行っている。道路を敷くのは、日露戦争が終わった後のことである。予算は湯水のようには使えず、年間50万円という限度枠が設けられていた。市区改正の成果は、前述した通りである。

海の中の道路を敷いた事実はないことも、前回述べた通りである。

つまり、「市区改正」は初めから地上の計画ではなかった。(P129)

つまり、市区改正は、初めから地上の計画でしかなかった。秋庭俊さんは、市区改正の時点で東京に地下網が敷かれたと、あちこちで主張しているが、そんな事実は史実からはまったく妄想不可能である。市区改正は、紆余曲折を経ながらも、つくるべき道路をつくり、使っただけの予算を費やした。

次は、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)より。

市区改正・下水改良は、このように何の成果もなかった。(P270)

下水改良が実は、国民に隠された地下鉄建設だったという話は、秋庭さんの書籍のあちこちに登場するが、これも誤解。市区改正が湯水のようにお金を使った事実はないし、お金を投資した分の道路や施設改良はちゃんと行われた。

下水改良は、確かにあまり成果が出なかった。

それは、前述したように、市区改正委員会の方針は、最初から、上水を先に整備し、完成後に下水に着手する、という優先順位だったからである。近代国家はどこでも上下水道は並行して着手するものだ。川上だけ整備して、川下がなかったら、水は汚くなるばかり。これが、帝都復興でも問題になるのだが、その話は、また次の機会に。

内務省は、上水完成を待ち、ようやく下水の調査を開始する。明治41年4月11日、ようやく下水計画を公示。計画人口300万人、雨汚水合流、簡易沈殿処理方式だった。が、すでに財源は底をつき、事業は進まない。大正2年11月、国庫補助を受けて、ようやく鍬入れが行われる。大正12年、下谷、外神田、浅草の低湿地帯のみ完了しただけだった。上水道整備が、伝染病対策を契機に委員会案に盛り込まれたことはすでに前述したが、この頃、世界の伝染病対策は、水道から注射へと転換しつつあった。下水改良が本格化するのは、関東大震災の後のことである。

市区改正は、日本初の都市計画である。

『東京都市計画史論』(寺西弘文、東京都市計画社)では、市区改正旧設計(委員会案)を解説して、こんなことを書いている。

千代田、中央両区内で都市計画された道路網密度は、現都市計画道路網密度の2倍あまりの高い計画水準であった。

計画区域内における今日の計画道路網体系と比較したとき、約70%が重複し、その旧設計による計画道路網体系の大半が今日の計画道路網体系をカバーしている。

市区改正で計画された道路は、すべて実現したわけではないが、今日の都市計画の源流となっている。現在、東京の基幹道路のほとんどには、地下鉄が走っており、市区改正が示した道路と、現在の地下鉄網が重なることも多い。でも、ここまで述べて来たように、市区改正のときに、国民に隠れされた地下鉄が建設された可能性は、かなり低いと言わざるを得ない。

秋庭さんは、オイラが教科書にした『明治の東京計画』を自著の参考文献に挙げている。これを読めば、市区改正にちゃんと成果があり、財源が限られていたことが分かるはずだが、秋庭さんの著書にはそれがまったく反映されていない。どうして、秋庭さんは、この文献の記述を無視したのであろうか。その辺は、ぜひ本人に聞いていただきたい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。


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『写真と地図で読む!帝都東京・地下の秘密』(洋泉社MOOK)を読んでみた。

『大東京の地下99の謎』(秋庭俊著、二見文庫)を読む

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コメント

地下ネタ中心ですがその後も読ませてもらってます。聴く音楽は違うし、眞鍋姉さんもよく分かりませんが、「癒されパターン」に親近感を持ったのもので。
バッキは手放しました。支離滅裂な本文からは陰謀論がちっとも読み取れない!洋泉社・新潮社の編集者の読解力はすごいぞ。
ちなみに私のような歴史派鉄チャンには、京成上野の地下線に客車を引き込んで運輸省が疎開した話が有名。こういうのにロマンを感じてしまうんですが(笑)バッキは違うんですね。残念。

投稿: くびきのコッペル | 2006年9月22日 (金) 20時50分

いつもご愛読ありがとうです。

秋庭さんが、現実にある「陰謀」からかけ離れてオカルトに走っているのは、秋庭さん自身の都合なのか、出版社側の要請だったのか、今ひとつ、つかみきれません。オイラも、歴史派鉄ちゃんのロマン、少し分かります(笑)京王線新宿駅のホーム下に残る分岐跡なんて見つけたりすると、鼻血ものです(爆)

投稿: mori-chi | 2006年9月22日 (金) 21時09分

 私の著書の東京都市計画史論(国会、都立図書館で閲覧可能)の引用がありましたので少しコメントを。
 東京市区改正(都市計画)道路事業(新設計)=東京市電敷設、すなわち電鉄納付金で計画道路事業がなされた。
 また、今日の地下鉄網は旧東京市電網→旧都電網→都営地下鉄網の脈絡がみえることも事実。
 ちなみにパリの地下鉄開設は1902年、東京の地下鉄は上野ー浅草間が1927年の開業。また、明治期におけるパリの都市計画ー東京の都市計画の関連性も否定できない。
(参考文献:パリ・東京比較都市政策研究、寺西著、2005年、都立、国会図書館閲覧可)
 東京市区改正の根本理念は、「道路、橋梁、河川は本なり、水道、家屋、下水は末なり」であった。

投稿: 寺西弘文 | 2007年7月 3日 (火) 23時28分

寺西先生☆

先生の著作を勝手に引用してしまい、申し訳ありませんでした。都市計画の歴史を学ぶ上で大変参考にさせていただきました。

さらに、様々なご教授にお礼申し上げます。参考文献はさっそく読んでみたいと思います。

大江戸線のルートと、旧都電網を重ね合わせると、都営地下鉄が都電のルートを追っているということが分かります。都が多額の負債を覚悟しても、大江戸線を建設した理由は、昔の都電網を地下鉄で復活したいという強い意志があったように感じました。これは、オイラの妄想なんですが(笑)

投稿: mori-chi | 2007年7月 4日 (水) 08時08分

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