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2006年9月18日 (月)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?23

さっきテレビを何となくつけたら、テレビ朝日で『素敵な宇宙船地球号』という番組をやっていて、「追跡!謎のアンダーグラウンド」と題して、日本中の地下の秘密に迫っていた。秋庭俊さん曰く、「入ると違法」の地下変電所に、松岡修造さんが入り込み、洞道に仁王立ちしていた。地下鉄霞ヶ関が戦前の防空壕を壊してつくったことも明らかにされていた。「極秘」という地下が、次々に明らかにされていく。

秋庭さん、あなたは、ジャーナリストが入ってはいけない世界に足を踏み入れた。

それは、オカルト…。

今夜は、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)より。

東京湾・月島に矢印をつけた。「1等1類」の道路が海のなかへと延びている。いま、この道路は地下鉄大江戸線に一致している。市区改正時にこの道路が建設されたかどうかわからなくても、このような計画図を製作している以上、当時の政府はシールド機を持っていたか、まもなく買う予定があったということだと私は思う。(P266)

図には確かに、月島付近に道路が延びている。海のように見えるが、原典を見ると、ここが埋め立て地になる予定だったことが分かる。原典は、『東京都市計画資料集成(明治・大正篇)・第34巻』(本の友社)に掲載されている。この月島地区は、明治18年10月の市区改正審査会案では、埋め立てを行い、東京港が建設される予定だった。その真ん中を貫く1等1類の道路が、これである。委員会案(明治22年3月)では、築港計画を棚上げしてしまったが、埋め立て地を貫くこの道路だけは残っていた。結局、新設計(明治36年3月)では、この道路計画は外されてしまった。

従って、秋庭さんは、シールド機の開発まで妄想しているが、ここにはトンネルなど掘る理由はないし、掘っていない。そもそも、万が一、極秘の地下道を通すにしても、海底に、途中で途切れてしまうトンネルを掘る理由などない。そんなトンネル、いらない。使えない。

秋庭さんは、明治時代の市区改正を根本的に誤解している。

明治から昭和に至る都市計画を簡単に学ぶなら、『東京アーカイブス』(芦原由起夫、山海堂)が分かりやすい。市区改正について詳しく知りたいなら、『明治の東京計画』(藤森照信、岩波書店)が最も最適だと思う。

市区改正の起源は、明治11年、楠本正隆府知事が、東京の市域の再検討に着手したことが始まりだった。

“この10年間、東京は江戸の朱引をそのまま引き継ぎ、自分の枠としているが、はたしてそれで良いのか”

明治13(1880)年、松田道之府知事は、「東京中央市区画定之問題」を策定。「中央市区及新港の位置を定るの目的を立んとす」とし、東京港への国際貿易港開港をぶち挙げたのだった。東京の中央に、有力商人や製造業者だけが集まる繁栄の街をつくろうというのが狙い。が、その本音は、金持ちの囲い込みと、貧富の住み分けというものだった。これに対し、石川島造船所社長の平野富二氏が「市区改正並築港之要項」という、17項目に及ぶ対案をぶつける。ここで初めて、「市区改正」という用語が登場した。

明治13年12月、第1回市区取調委員総会は、さすがに貧富の住み分けという中央市区には批判が多くて、計画から切り捨てた。道路・運河といった市区改正と築港の2課題を抽出し、築港最優先の方針を打ち出す。

松田府知事の急死に伴い、明治15(1882)年7月19日、芳川顕正府知事が就任。芳川知事は、築港計画を白紙にし、ほとんど手のついていなかった市区改正計画を正面に掲げた。明治17年11月14日、「市区改正意見書」を内務卿に上申。いわゆる、「市区改正芳川案」である。

芳川案では、旧江戸より一回り小さい東京を想定し、既存道路の拡幅とつけかえ・つなぎ合わせにより、閉じた旧封建都市江戸を開くことに主眼が置かれていた。東京を国土の交通ネットワークの収束点にすえた、交通重視の計画である。真ん中には、上野と新橋を貫く縦貫鉄道がある。

これを受け、明治17年12月17日、内務省内に市区改正審査会が設置された。

審査会案では、交通中心の芳川案に、築港、遊園、市場、劇場、商法会議所などの施設計画を加え、全体としては築港を軸に商業都市化を狙うものだった。ここで、秋庭さんがシールドのトンネルと言っていた築港道路が幹線として登場した。

明治18(1885)年10月18日、芳川府知事から内務省の山県有朋に対して、審査会案の復申がある。山県は、ただちに太政官に上申し、審査会案の了承と、東京市区改正局を内務省に新設するよう、裁可を求めた。

ところが、審査会案も、東京市区改正局の設置も、たなざらしにされる。

外務卿井上馨は、太政官直属事業として、官庁集中計画を立案していた。日本は、当時、幕府と欧米列強が結んだ不平等条約の改定交渉をしていた。が、欧米列強からすれば、田舎侍の日本が何を言ってやがる、エラそうなことは、西洋並の近代国家をつくってから言えと、相手にされなかった。井上は、西洋並みの官庁街を持つ文明国として、対等に扱わせ、なめられ続ける交渉を盛り返したいという思いがあった。

つまり、鹿鳴館の都市版。

内務省の東京市区改正局の設置どころか、外務省に臨時建築局まで設置されてしまう有様だった。

明治19年12月25日、臨時建築局総裁の井上馨と、副総裁三島通庸が、総理大臣伊藤博文宛に、市区改正の権限を内務省から建築局に移すよう建議書を提出した。

内務省vs外務省

時代が変わっても、省庁の争いは同じらしい。

この対立、あっけなく内務省の勝利に終わる。不平等条約改正交渉が決裂し、井上外務大臣が辞任すると、臨時建築局は内務省の所管に移される。条約交渉自体がなくなれば、官庁集中計画など存在意義を失った。2年間の沈黙を経て、市区改正計画は復活する。

明治21年8月、東京市区改正条例が発布。当時の元老院は否決したが、内務省は強行した。これにより、都市計画の全権を内務大臣に集中。市区改正委員会が発足した。築港計画は、当時の日本最大の国際貿易港・横浜港を持つ神奈川県からの反発が強く、内務省は、横浜港の大改造へと傾いたため、外された。

明治の初期、東京のビジネスの中心は、兜町だった。運河による海運が優れていたためだ。築港計画も、兜町のビジネス街としての強化が背景にあったに違いない。ところが、時代は、海運から陸運へと変わりつつあった。上野と新橋を結ぶ鉄道の計画が具体化していくと、海運より陸運の便がいい丸ノ内にビジネスの拠点をつくろうという話になる。市区改正委員会案では、築港計画は消え、丸の内オフィス街計画が盛り込まれ、これに従い、三菱が払い下げを受けて、オフィスビルを建設。東京の経済の中心は、兜町から丸の内へと移動していく。市区改正の歴史を紐解くと、そんな時代の変化を垣間見る。

さて、あの海の中を貫く道路が、極秘の地下道だと、ここまで読んでも信じることができるだろうか。歴史を正しく認識すれば、市区改正が地下の計画などという滑稽な妄想は、出てくるはずがない。市区改正が地下の計画なら、官庁集中計画は何だったのか。外務省と内務省は、なぜ対立したのか。地下の利権を争ったのか。妄想ならいくらでもできるが、明治時代の都市計画が、内務省と外務省との激烈な争いの中にあったという事実から想像できることは、ここに地下網という妄想を挟む余地はないということである。

では、市区改正は、湯水のように金を使って、道路1本敷かなかったのではないか。

秋庭さんは、様々な書籍でそう書いている。

が、そんな事実はない。

今夜書いたことは、市区改正の計画が、現実政治の遡上にのぼるまでの話である。ここから、市区改正が実際に動き始め、完成に向かう話は…、申し訳ない。長すぎて、今夜はここでお開きである。

もしも、もっと早く知りたいという人がいれば、ぜひ上で紹介した本を読んでみていただきたい。オイラはもう寝たいので、今夜のところは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。


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